おはようございます。
MFIの仲宗根です。
「共感」という言葉を、勘違いしていませんか?
今日は「共感」についてお話ししたいと思います。
これは、僕たちが日常的に使う言葉ですが、その意味を本当に理解している人は、意外と少ないのではないでしょうか?
というのも、「共感」と聞くと、多くの人が「相手の気持ちに寄り添うこと」「相手の立場を想像すること」と思いがちですが、実はそれだけでは足りません。
むしろ、「共感」の本質を見誤ると、相手との距離が広がってしまうことさえあります。
「共感」とは、他者への“憐憫”や“同情”ではない
たとえば、目の前に困っている人がいたとします。
その人に対して、「かわいそうに…」「助けてあげたいな…」と思うのは、確かに優しさかもしれません。
でも、それって実は「共感」ではなく、「憐憫(れんびん)」や「同情」なんです。
「憐憫」というのは、不憫に思うこと。つまり、相手を「かわいそうな人」として見ている状態です。
この感情が生まれると、どうしても「助ける側」と「助けられる側」という関係になってしまい、「自分」と「相手」の間に線が引かれてしまう。
これでは、本当の意味で“共に”いることはできません。
じゃあ、「共感」とは何なのか?
「共感」とは、『目の前の人の姿が、自分の姿に見える』こと
本当の共感とは、もっと根源的なものです。
「もし、自分がこの世に生まれるときに、ほんの少しの偶然の違いがあったなら?」
「もし、自分がこの人と同じ境遇に生まれていたら?」
そう考えたとき、目の前の人が“他人”ではなく、自分の延長線上にいるように感じる。
この状態こそが、本当の「共感」なんです。
そこにあるのは、「助ける側」と「助けられる側」という関係ではなく、「同じ人間として、同じ景色を見ている」という感覚。
これが「共感」の本質だと思うのです。
共感が生まれたとき、人は本当に動く
たとえば、僕たちが何かを応援したくなるときって、ただ「かわいそうだから」ではなく、「あの人の姿が、昔の自分に重なった」とか、「もし自分が同じ立場だったら…」と考えたときではないでしょうか?
『自分ごと』になったとき、人は本気で動きます。
だからこそ、僕たちが本当に“共感”を大切にするなら、相手を「かわいそうな人」として見るのではなく、「自分の一部」として感じられるかどうか。
ここが、めちゃくちゃ大事なんじゃないかと思います。
「共感」を勘違いしない社会をつくるために
これからの時代、「共感力」はますます大切になってくると思います。
でも、それは「同情する力」ではなく、「相手と自分の境界線をなくす力」のこと。
そういう意味での「共感」が生まれる社会を、僕はつくっていきたいなと思っています。
そんなことを考えながら、今日もまた、前に進みます。
以上、現場からお伝えしました。